AIによる採点の導入で変わるフィギュアスケートの価値観
主観を排除することで「納得感」は増えるけど…
要は、フィギュアスケートの採点ってずっと不満の声が多かったんですよね。審判の主観が入りやすいとか、国によって贔屓があるとか、そういう話が常につきまとってたわけです。で、そこにAIを使えば客観的に判断できるようになるんじゃないか、っていう流れになってると。
確かに、技術的な部分、たとえばジャンプの回転数とか着地の正確さって、センサーとか高精度の映像解析で正確に数値化できるんですよ。で、それをAIが学習して判定すれば、人間のバイアスが排除されて「公平な採点」になるって話なんですけど。
ただ、それってほんとに「公平」なんですかね?って思うんですよ。結局、スポーツって人が見るから感動するんであって、完全にデータ化されたら、その時点で感情が置き去りにされるんじゃないかなと。
「芸術性の数値化」がもたらす演技の均質化
AIが採点を担当する未来で一番問題になるのが、「芸術性」の部分ですよね。ジャンプの正確さはデータ化できても、「表現力がある」とか「観客を惹きつける」っていう要素は、数値にしにくいんですよ。じゃあ、そこをどうするかっていうと、結局、AIが過去の高得点演技を学習して、パターン化された「好ましい演技」を導き出すようになる。
そうすると、選手たちは「AIに好かれる演技」をするようになるんですよ。つまり、AIが高得点を出しやすい動きや構成を選ぶ。結果として、演技のバリエーションがどんどん減って、個性がなくなっていくんじゃないかと思うんですよね。
これって、スポーツの「勝ちパターン」が研究され尽くされるのと同じ現象なんですけど、フィギュアスケートみたいに芸術性が重視される競技だと、それがむしろマイナスに働く気がします。
観客の「感動」が置き去りにされる未来
観客が何を求めてるかって、「すごい技」だけじゃなくて「心を動かす瞬間」なんですよ。で、それって往々にして、技術的に完璧じゃなくても伝わることがある。逆に言うと、完璧すぎると逆に冷たく感じることもある。
でも、AIが採点するようになると、そういう「心を動かす」みたいな曖昧な要素が無視されがちになるんですよ。人間だったら、「ちょっとミスったけど気持ちが伝わってきたから点数上げよう」ってことがあるけど、AIにはそれができない。
つまり、AIによる採点って、「正しいけどつまらない」方向に進んじゃう危険性があるわけです。これは競技としての信頼性は上がるけど、エンタメとしての魅力は減るっていう、結構大きなジレンマなんですよね。
フィギュアスケートに限らない「AIによる評価」の波
就職活動、芸術、教育…あらゆる場面に波及する
で、これがフィギュアスケートだけの話かっていうと、そうじゃないんですよ。評価をAIに任せるっていう流れは、就職活動とか教育、さらには芸術の世界にも波及していくと思うんですよね。
たとえば、履歴書をAIが見て「この人は採用すべき」って判断するとか、学校の試験で「この作文は感情がこもっているから高評価」とか。そういうのがどんどん広がっていく。
ただ、それってある種の「規格化された人間」を生み出すことになるんですよ。つまり、「AIに評価されやすい表現をする人」ばっかりになる。結果として、オリジナリティのある人が評価されにくくなる構造ができあがるんですよね。
「AI好みの人間」が量産される未来
結局、人間って評価されたい生き物なんで、評価基準がAIになると、その基準に自分を合わせようとするんですよ。で、AIって過去データの分析から最適解を導き出すものだから、「過去に良かったパターン」に近づこうとする人が増える。
そうすると、みんなが同じような言い回しを使い、同じような振る舞いをするようになる。フィギュアスケートだけじゃなく、就活生も、作家も、クリエイターも、全部が「AIウケ」を意識して似たような存在になる。
これって、なんか気持ち悪いですよね。だって、人間って本来バラバラで、変なやつがいてもいいし、むしろ変なやつが面白いのに、その多様性が削られるわけで。
変化する「努力」の価値と社会の順応
「努力の方向」がAIに決められる社会
今までって、努力すれば報われるとか、自分なりに工夫すれば道が開けるみたいな価値観があったと思うんですよ。でも、AIによる評価が主流になると、「どう努力すれば評価されるか」ってのが、あらかじめ決められたレールになっちゃうんですよね。
たとえば、AIが「こういう技術構成が高得点になりやすい」と学習すれば、選手たちはみんなその構成に寄せてくる。で、その中での細かい出来栄えの差を争う、みたいな。つまり、独自性とか創造性よりも、「最適化された努力」が求められるようになる。
これ、クリエイティブな分野でも同じで、「こういうスタイルが売れる」ってAIが予測すれば、クリエイターはそれに従うようになる。つまり、努力の意味が「自分のやりたいこと」じゃなくて「AIに評価されること」にすり替わっていくんですよ。
「間違った努力」が評価されなくなる世界
人間の成長って、遠回りだったり無駄な努力を経て、ようやく何かを掴むことが多いんですけど、AIはそれを待ってくれないんですよね。「正解」に一直線で向かえる人しか評価されない。
つまり、間違った努力とか、変なやり方での試行錯誤が一切評価されない世界になる。これは一見合理的に見えるけど、実は人間的な成長の本質を失ってるんじゃないかなと思うんですよね。
で、それに気づかないまま「効率よく正解を出す人間」が量産されていくと、結果として面白みのない社会になる。間違える自由、無駄な挑戦をする自由がどんどん失われていく。
「感情の余白」がなくなる時代の到来
AIが評価しない部分に価値を見出す人間
たとえば、昔の映画って粗削りだけど心に残る作品が多かったんですよ。でも今は、AIが分析した「ヒットの構成」をベースに作られた作品が多くて、どこか没個性になってる。
フィギュアスケートの話に戻すと、観客は「上手い」だけじゃなくて「泣ける演技」に価値を見出してるんですよ。AIは「泣ける」って感覚を評価できないから、そういう部分が切り捨てられていく。
だけど、本来、そういう感情の余白こそが、人間の文化や芸術を豊かにしてきた部分なんですよね。だから、AIの評価から漏れた部分にこそ、本当の意味での人間らしさとか、未来に残る価値があるんじゃないかと。
「正しすぎる世界」の退屈さ
AIによる評価が完璧になればなるほど、「正しいことしかしない社会」になっていく。でも、そんな社会って、めちゃくちゃ退屈なんですよね。正しいことしか言わない政治家、炎上しない発言しかできない芸能人、採点基準に最適化された演技しかできないアスリート。
つまり、間違いとかハプニングとか、ある意味での「人間臭さ」がどんどん排除されていく。で、その結果として、観ていてワクワクしない社会になる。これは個人的にはすごく損失だと思うんですよね。
AIに抗う人間の未来
あえて非効率を選ぶ人が価値を生む
こういう流れの中で、本当に価値を生む人っていうのは、「AIに評価されること」をあえて無視できる人だと思うんですよ。つまり、「これはAIにウケないけど、自分はこれが面白いと思う」っていう判断ができる人。
そういう人が、AIが見落としたニーズを拾って、新しい価値を作っていく。だからこれからの時代は、AIの分析を理解しつつも、それを超えて自分の感性を信じる人が強くなるんじゃないですかね。
フィギュアスケートが「共感の場」になる日
最終的に、フィギュアスケートも「誰がAIに好かれるか」じゃなくて、「誰が観客の心を動かせるか」ってところに戻ってくると思うんですよ。採点はAIに任せるとしても、観客の評価が競技の価値を決めるようになる。
つまり、「感動した」って声がSNSで拡散されたり、観客の拍手の大きさが演技の価値を左右するような、別の評価軸が生まれてくる。それは人間がAIに対して、「評価されるだけの存在」じゃなくて、「評価する側」であることを思い出すきっかけになるんじゃないかと。
AIによって公平性が担保される未来と、人間らしさが失われる未来。その狭間で僕たちがどう生きていくかが、これから問われるんじゃないですかね。
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