AIが短歌を詠む意味とは
人間の感性の終焉?
AIが短歌を詠むようになったって話なんですけど、これって要は「人間らしさ」って何なのかって話に行き着くんですよね。短歌って、日本独特の文化で、五・七・五・七・七という制限の中で、季節感とか心情とかを詠み上げるっていう、ある種の高度な知的遊戯なんですよ。でも、それをAIがやれるってなると、「じゃあ、人間がやる意味って何?」って疑問が出てくるんですよね。
で、AIって基本的に過去の膨大なデータを学習して、それっぽいものを生成するわけじゃないですか。つまり、すでに世の中に存在してる短歌を元にして、感性っぽいものを再現するんですけど、それでも読んでる人間には「これ、いい短歌だなぁ」って思わせちゃう。それって、結局、人間の感性って“データ化可能”ってことなんですよ。要は、感性が再現できる時点で、それってもう「人間だけの特権じゃないよね」っていう話なんですよね。
創作=人間の価値という幻想
昔は「創作すること」って、人間にしかできない尊い行為だって思われてたんですよ。小説でも詩でも音楽でも、アートってのは人間の深い感情や人生経験から生まれるもの、みたいな。ところが、AIがそれっぽい作品を量産できるようになってる今、それって幻想じゃなかったの?ってことに気づかされるんですよね。
たとえば、AIが生み出した短歌が「NHK全国短歌大会」で入賞しちゃいましたーとか、実際にありえる未来なわけです。で、その短歌を読んだ審査員が「これは非常に人間味あふれる表現で…」とか言って評価するんですよ。でもそれ、AIが書いたやつなんですよ?じゃあ、その人間味って何?って話で。つまり、表現された内容よりも、それを「誰が作ったか」っていう情報のほうが、人間にとっては大事だったっていう、すごく皮肉な構造が見えてくるんですよね。
未来社会における「創作」の位置づけ
プロの表現者は消えるか?
AIが芸術をやれるようになると、当然、「表現することで食ってる人たち」は立場がなくなるんですよ。たとえば、俳人、詩人、小説家、漫画家、作詞家、みたいな人たちですね。で、AIが「それっぽい」ものを大量に高速で出力できるなら、「人間が1日かけてひねり出した一句」よりも、AIが1秒で作る100句の中に、名作が一つ紛れてる確率の方が高くなる。
だから、人間の作家は「速さ」や「量」で勝負できなくなるわけですよ。そうなると、人間の表現者が生き残るには、「なぜこの人がそれを作ったのか」っていう背景とか文脈に価値を見出すしかなくなる。つまり、「作品の中身」じゃなくて「作者の物語」が商品になる。もう創作物そのものじゃ食えない時代になるんじゃないかなと。
「偶然性」の時代へ
で、じゃあ何が残るかって話になると、たぶん「偶然の産物」なんですよね。AIって、予測可能なロジックで動くから、どうしても“計算された美しさ”になる。でも、人間の作品って、「うっかり間違ったけど逆に面白かった」とか、「本人も意図してなかったけど深い意味が生まれた」とか、そういう偶然の力が働いてる部分が大きい。
つまり、これからの時代に価値を持つ表現って、「ロジックでは生まれないもの」になっていく。で、それが人間の最後の居場所になる可能性があるんですよ。意図せず生まれたものに意味を見出すっていう行為は、今のところAIには苦手な領域なんで。まあ、それも時間の問題かもしれないですけどね。
生活に入り込む「感性の自動化」
恋愛の言葉もAI任せ?
例えば将来的に、「恋人に送るポエム」や「告白のセリフ」をAIが代筆するってことも当たり前になると思うんですよ。で、「彼氏が送ってくれた詩が感動的だった!」みたいなSNS投稿がバズったけど、実はChatGPTで出力されたテンプレでした、みたいなね。
でも、受け取った側が「嬉しい」と感じるなら、それはそれで成立してるんですよ。要は、人が感じる“感動”って、中身がどうであれ、外側のパッケージで十分誘導できちゃうってことなんですよね。つまり「本物の感情」って、実はめっちゃ操作しやすいんですよ。
子どもの教育にも影響が出る
短歌とか詩って、昔は「感性を育てる教育」として、国語の授業でも重視されてたと思うんですけど、これからは「AIでもできるしなぁ…」って感じで、教育現場での扱いも変わってくるかもしれないですね。「感性は育てるもの」じゃなくて、「選ぶもの」になる。つまり、数あるAI作品の中から「良いものを選ぶ目」を育てる、って方向にシフトする可能性がある。
そのうち、授業で「AIが詠んだ短歌10個を評価しなさい」みたいな課題が出てきて、教師が「この子は感性が豊かだ」とか言い出す時代が来ると思うんですよ。でもそれって、結局「感性の評価」じゃなくて、「情報処理能力の評価」になっていくわけで。人間の感性って、なんだったんですかね?って話です。
AIと人間の共存する創作社会
コラボレーションが当たり前に
AIが短歌を詠むっていう時代になると、「人間vsAI」みたいな構図じゃなくて、「人間×AI」の時代になるんですよね。たとえば、作詞家がAIを補助的に使ってリリックを作るとか、詩人がAIの生成した言葉にインスピレーションを受けて詩を仕上げるみたいな感じです。
つまり、創作の主導権が100%人間じゃなくなって、「共作者としてのAI」が当たり前になる未来。で、AIが吐き出した100個のうちの1つを人間が選んで、「これは自分の感性だ」と言い張る、みたいな構図が普通になっていく。そこには「創造性」よりも「選択能力」が重視されるんですよね。
結局、「何を生み出すか」より「どれを選ぶか」が評価の軸になる。そうすると、創作というよりキュレーション、つまり「目利き力」が新しい才能になるってことです。
匿名性と信用の逆転現象
あと面白いのは、「AIが作ったものか、人間が作ったものか」っていう信用の逆転が起こる可能性があることです。今って、AIが作った作品に対して「なんか冷たいよね」とか「人間味が足りない」って言うじゃないですか。でも、将来的には逆に「人間が作ったのか… それならミスも多いだろうな」とか「客観性がないから信用できない」とか、逆の評価が出てくる可能性があるんですよね。
つまり、「人間が作った=不安定で偏ってる」という認識になる。たとえば、経済予測とか医療診断とかで、AIのほうが人間より信頼されてるのと同じで、創作の分野でも「安定してるAI作品のほうが安心できる」っていう価値観が主流になる可能性があるわけです。
倫理と感性のボーダーが曖昧に
著作権と創作の再定義
AIが既存の短歌を学習して、それを元に新しい短歌を詠むってなると、「これは誰の著作物なのか?」って問題が出てきますよね。で、AIが生み出した短歌が著作権を持てないとなると、それを使った人間が著作権者になる。でも、それって結局「中身を作ってないのに、権利だけ取る」って構図になるわけですよ。
この状況が続くと、既存の詩人や作家が「自分の作品を学習に使われた!」って怒るケースがどんどん出てきて、結果として「創作=誰のものか」という概念自体が揺らぐんですよね。で、それが悪いかって言うと、別に悪くないんですよ。要は、「人間が独占すること自体、意味あるの?」ってところまでいくと思うんです。
感性のパッケージ化と広告産業
あと、感性がデータ化されて「こういう言葉を使えば人は感動する」っていうテンプレートができると、広告とかマーケティングの分野でめちゃくちゃ使われるようになると思うんですよ。たとえば、バレンタインデーに向けて「感動的なキャッチコピー100選」をAIが生成するとか。で、それがSNSでバズって「今年も泣ける広告来た!」みたいなムーブメントになる。
でもそれ、全部AIがやってるんですよね。つまり、人の心を動かす言葉って、感性じゃなくて「設計」なんですよ。だから、マーケターも詩人もクリエイターも、「どう設計するか」に集中する時代になるわけで、もう“ひらめき”とか“インスピレーション”とか言ってる場合じゃないんですよ。感性って“再現可能”になったら、もう設計図でしかないんですよね。
「人間らしさ」はどこへ行く?
自己表現の意義の再定義
こうやってAIが人間の表現を再現できるようになってくると、「自分で詠む意味」って何?ってなるんですよね。だって、上手な短歌を作るだけならAIのほうが圧倒的に早くてうまい。じゃあ人間がわざわざ五・七・五・七・七をひねり出す理由って何なのか。
そこで出てくるのが、「自己表現のプロセス自体に意味がある」っていう考え方なんですよ。つまり、「うまく詠む」ことじゃなくて、「詠むことで自分を知る」みたいな内面的な価値。そうなってくると、作品のクオリティとか評価とかはどうでもよくて、自分の心の整理としての短歌っていう存在になっていく。
で、それってむしろ本来の文学の在り方に近い気がするんですよね。評価されるための表現じゃなくて、自分の中にあるものを形にするための行為。そういう意味では、AIの台頭によって逆に「表現の個人化」が進む可能性もあると思います。
感性とは「曖昧さ」に宿る
結局、AIってロジックの塊なんで、「わからなさ」とか「曖昧さ」が苦手なんですよ。でも、人間の感性って、まさにその「曖昧さ」に宿る部分が大きい。「なんかよくわかんないけど、グッとくる」とか、「説明できないけど泣ける」とか、そういう“わからなさ”があるから感動する。
だから、AIがどれだけ進化しても、「よくわからないけど好き」っていう感覚だけは残ると思うんですよね。で、その“わからなさ”こそが人間の感性の本質なんじゃないかと。つまり、AIの出現によって「感性の定義」が逆に浮き彫りになるっていう、皮肉な未来が待ってると思います。
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