AI生成画像と「信用」の崩壊
「目に見えるもの」が信じられなくなる時代
要はですね、今回のAIによる裸画像生成と販売の摘発っていうのは、技術が社会倫理や法律のスピードを追い越した典型的な例だと思うんですよ。昔は「写真は証拠になる」とか言われてたんですけど、今後は「写真なんていくらでも作れるよね?」っていう認識が一般化してくると思います。つまり、視覚情報の信頼性が崩れるんですよね。
で、そうなると何が起きるかっていうと、「証拠能力」っていうものがめちゃくちゃ薄くなる。警察とか裁判所が映像をもとに判断してた部分が、全部疑わしくなってくる。AIで顔を合成した画像がネットに流れて、「この人がやった」とか言われても、実は全然別人でしたっていうオチになる。で、こういう事例が増えると、社会全体が「何を信じたらいいかわからない」っていう状態になるんですよ。
「信用の再構築」が必要になる
結局、これからは「人間の証言」よりも、「技術的裏付け」が求められるようになると思うんですよね。例えば、ブロックチェーンとかで画像の出所を証明するとか、AIが編集された痕跡を自動的に検出するシステムを義務化するとか。
今のところはまだ対策が追いついてないですけど、たぶん5年以内には「デジタル証拠認証」みたいな仕組みが法律で義務付けられると思います。で、それを実装する企業や技術が一気に伸びていくんじゃないですかね。要は「信用を再構築するためのビジネス」っていう新しい市場ができるってことです。
プライバシーの死と新しい倫理観
デジタル社会における「羞恥心」の崩壊
で、もう一つ重要なのは「プライバシー感覚が変わってくる」ってことなんですよ。昔は「裸画像が流出したら人生終わり」みたいな感覚があったんですけど、今後は「裸画像なんていくらでも作れるし、それが本物かもわからない」ってなると、恥ずかしさの基準自体が変わってくるんですよね。
たとえば、有名人のAIポルノがネットに出ても「どうせフェイクでしょ」で終わる。で、それを見た人も「まぁ、ネタだよね」ってなる。つまり、プライバシー侵害の感覚がどんどん薄くなってくる。ある意味で「羞恥心が希薄な社会」ができあがるんですよ。
法と倫理のアップデートが追いつかない
ただし、それに対応する法律とか倫理って、今の時点では全然追いついてないんですよね。現行の名誉毀損とか肖像権の法律って、基本的に「本物の画像」を前提としてるんですけど、AIで作った画像が「本物よりリアル」になってきたら、どこまでが違法でどこまでが表現の自由かって、線引きがめちゃくちゃ難しくなる。
で、そこにまた悪いヤツが入り込んでくる。「これはアートです」とか「これはパロディです」って言って、ぎりぎりセーフのラインを狙ってくる。でも実際には誰かの評判が下がるし、精神的なダメージもある。だけど、それを裁くルールがないから放置される。こういう「法のグレーゾーン」を突くビジネスって、これからもどんどん増えると思うんですよね。
ディープフェイクが日常に溶け込む未来
フェイクとリアルの境界がなくなる
たぶん、数年後には「ディープフェイク=悪」っていうイメージが変わってくると思うんですよ。今は「フェイク画像を作る=犯罪」みたいに見られがちですけど、テクノロジーって基本的には使い方次第じゃないですか。映画やゲーム業界ではもう普通に使われてるし、教育や医療の分野でも応用されるようになってきてる。
で、それが日常生活にまで入り込んでくると、「あの人の結婚式に行けなかったから、ディープフェイクで一緒に写真撮った」みたいな話も普通になる。つまり、フェイクが悪じゃなくて「便利なツール」として認識される未来が来ると思うんですよ。
人間関係すらフェイクで作れる時代へ
さらに言うと、今後は「フェイクの人間関係」っていうのも出てくると思いますよ。たとえば、AIで作った彼氏彼女の写真をSNSに載せて、「恋人いますアピール」をする人とか。周囲もそれがフェイクだって分かってるけど、誰も指摘しない。「バレてるけど誰も言わない」っていう奇妙な合意ができる社会になる。
で、そうなると何が起きるかっていうと、「リアルな人間関係がどんどん希薄になる」んですよ。だって、フェイクの方が楽だし、失敗しないから。結局、人間関係ってめんどくさいし、リスクもあるし。でもAIなら、都合のいい返答しかしないし、喧嘩もしない。だから、現実よりもフェイクの方が「快適」っていう感覚が広がってくると思います。
デジタルの人格と「自己」の変容
「私とは誰か」が曖昧になる社会
要はですね、AIによって自分の分身が簡単に作れるようになった結果、人間の「アイデンティティ」ってものの意味が変わってくると思うんですよ。たとえば、AIが自分そっくりの映像を喋らせたり、SNSで自分の口調を模倣して発信させたりするのが当たり前になってくると、「本人とAIの境界」ってどこなの?っていう話になる。
で、そうなると「本当の自分はどこにいるのか?」っていう問いが曖昧になる。仕事はAIが代行、恋愛もAIが補完、自己表現すらAIが演出。じゃあ、「自分」ってなんなんですかね?という問いに行き着くんですよね。つまり、人間のアイデンティティが「肉体を持つこと」から「情報の集合体」へと移行していく未来が見えてくる。
人格の「パッケージ化」と消費の加速
さらに言えば、AIで作られた人格が商品化されるようになると思うんですよ。たとえば、有名人の喋り方や考え方をAIで学習させて、「ひろゆきBOT」みたいなものが登場して、それがビジネスになる。もうすでに始まってる話ではあるんですけど、今後はこれが個人単位に広がっていく。
つまり、「あの人の話し方でニュースを読みたい」とか、「あの人の視点で人生相談してほしい」とか、そういう需要が出てくる。で、人間が「情報パッケージ」として売られる世界になる。本人が亡くなっても、そのパッケージは残って消費され続ける。デジタルの中で「生き続ける人間」って、普通に出てくると思うんですよね。
教育と就労の価値が再定義される
努力する意味の崩壊
で、こういうAIの進化が進むと、「努力することの意味」も変わってくるんですよ。たとえば、今までなら「勉強してスキルを身につける」ことが大事だったけど、AIが代わりに全部やってくれるとなると、それって必要ですか?って話になる。
実際に、AIに絵を描かせたり、文章を書かせたりしてる人って、もう「自分で努力してる」というより、「AIをうまく使ってるだけ」なんですよね。で、それが評価されるようになると、人間が何かを学ぶ理由ってどんどん希薄になってくる。「やらなくてもAIがやってくれるし」っていう感覚が広がるわけです。
教育は「答えを出す力」から「問いを立てる力」へ
だから、これから必要になるのは「答えを知っているか」じゃなくて、「何を質問するか」の方なんですよ。つまり、AIが全部答えを出してくれる社会では、「正解を知ること」に価値がない。むしろ、「どういう問いを立てるか」とか、「どういう視点で見るか」っていう方が重要になる。
で、それって日本の今の教育システムとは真逆なんですよね。今までは「みんな同じ答えにたどり着く」ことを良しとしてたけど、これからは「違う問いを立てられる人間」が評価されるようになる。そこに気づいてるかどうかで、今後の教育格差が大きくなると思います。
フェイクと現実の共存社会へ
「信じる」という行為の再定義
結局、フェイクと現実の区別がつかなくなる社会では、「何が本当か」じゃなくて、「誰を信じるか」の方が重要になるんですよね。つまり、「情報の正確性」じゃなくて、「発信者への信頼」が価値になる。だから今後は、「信用スコア」みたいなものが個人に付与される時代が来ると思います。
これは中国の社会信用スコアとは違って、もっと非公式な、「この人の言うことはだいたい正しい」っていう評価がSNSやコミュニティ単位で形成されていく。つまり、信頼の可視化が行われる社会になって、「誰が正しいか」を決めるのはアルゴリズムではなく、人々の評価になる。
現実と虚構のあいだで生きる力
最後に一番大事なことを言うと、たぶんこれからの時代って、「フェイクを理解した上で、それでも生きていけるか」っていう力が必要になるんですよね。つまり、「これはフェイクだけど、楽しめる」「これは本物かもしれないけど、気にしない」っていう、現実と虚構をうまく往復できる感性が重要になる。
で、それって昔の宗教とか芸術が担ってた役割と似てるんですよ。「見えないものを信じる力」とか、「フィクションから真実を学ぶ力」ってやつ。だから今後は、テクノロジーに強いだけじゃなくて、「フェイクに耐性のある人間」が生きやすくなる。そういう意味で、「リアル」と「フェイク」が共存する新しい文化が生まれてくると思うんですよね。
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